No.00740
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ホームに降り立つ時、私は身震いした。
雪に包まれていた、その日の船岡駅。寛文2年旧暦の今頃、原田甲斐は猟小屋に。
大して積雪を経験していないから、視界が白ければ大騒ぎしてしまう。
JR東北本線船岡駅の構内、濡れた床で私は足を滑らせ、転びそうになった。
徒歩15分程度とは知っていたが、私はタクシーに乗り込む。
雪道を往復30分で歩けるとは思えず、カメラを濡らす懸念を払拭できない。
初老の運転手に目的を告げる。船岡城址公園に向かっていただく。
撮影のため随所に停車をお願いした。撮影移動に合わせて、待っていてくださる。
意外なことに彼は、原田甲斐について詳しい知識を持ち合わせていなかった。
細切れに移動していただき、撮影に満足できた。お名前を記憶して礼を述べる。
城址公園登り口にある、ふるさと文化伝承館に入った。
いらっしゃった男性に思いを伝える。男性は隣の資料展示館「思源閣」に私を案内。
そこには学芸員の方が。寛文事件の真相に、興味の熱が覚めやらぬことを告げた。
椅子を勧められ資料を出して来られる。正直、面食らった。
ここまでの対応を期待していなかったのだ。そして彼は、2階へと導いてくださった。
決して広くないそこは、柴田町の歴史が何と石器時代から展示されている。
結論ありき、の起承転結、見事な話法を駆使なさる。彼は一つの文書を示した。
「あの~、これは撮影…は、やっぱりダメですよ…ね?」
掲載目的の撮影に彼は笑みを浮かべて、どうぞとおっしゃった。抜け目無く、お言葉に甘える。
富沢村本地畑御検地帳に原田甲斐守家中とある。彼の表情が寂しそうに思えた。
「実は原田甲斐の家紋さえ、残っていないんです。」
史実として伝えられているのは時の大老酒井雅楽頭評定、悪行を重ねた原田甲斐が
伊達安芸に斬りかかった、とされる。伊達騒動の終焉、寛文事件だ。
山本周五郎氏の小説「樅の木は残った」では、原田甲斐を悪人と位置づけていない。
真相など分からない。氏の小説「風雲海南記」でも大老酒井雅楽頭の野望を展開。
伊予西条藩松平家の受難がそこに書かれている。伊予宇和島藩は陸奥仙台藩の初代藩主、
伊達政宗の庶長子、秀宗が入封。伊予宇和島藩の近くで育ったことを学芸員に告げた。
目を輝かせなさった学芸員。私は彼から、様々な逸話をお聞きする幸福に恵まれる。
原田甲斐守家の断絶、城の場所さえ定かではない。城址公園は後の柴田家である。
残ったはずの樅の木とは、城址公園に現存する物から創られた話なのであろう。
板倉内膳正宅で行われるはずの評定、不自然に変更された経緯が「樅の木は残った」に
書かれており同小説内に於いて終始一貫、原田甲斐の人間性は尊大なのである。
「最後にお聞きしたいのですが、寛文事件の首謀者はやはり原田甲斐でしょうか。」
愚問と知りつつ、私は問う。彼は明確な回答を避けた。すこぶる賢明な行動の裏に、
いまだ解明調査のままならぬもどかしさを感じたのは、思い過ごしであろうか。
学芸員の方の誠意に、心から敬意を表したい。タクシー会社に架電、先ほどの運転手を。
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あとがき
昨年の夏、石巻市に仕事で来た時に粋狂で、神戸から自家用車で東北を旅行しました。
その時に仙台から栃木県益子町まで移動する必要に、今回の行動を遂行できませんでした。
ですが石巻市の近く、涌谷の地を通過できました。伊達騒動の領地紛争現場です。
広大な水田は効率を感じます。領地紛争に納得。このたび船岡に行けて、本当に幸福でした。
最後まで、お読みいただきありがとうございました



残った樅の木、創作だったようですね。
原田甲斐、意図的に存在が消されてしまったようで、事件の真相もわかりにくくなっていますね。
そうしなければ、伊達家も生き残れなかったのでしょう。
事件のことは不勉強で知りませんでした。
ただ、日本の歴史にとどまらず、世界のあらゆる国々について、今わたしたちが知っている歴史は、
あくまでも体制側が意図的に作り上げたものということを、最近実感しました。
事件のことは知りませんでした